陶芸作家・余宮隆さんインタビュー(全3回)
第1回 修行時代
土に触れる時間を重ねる中で、器は少しずつその人らしさを帯びていきます。修業時代に培った確かな技と、独立後に深めてきた「使う人」へのまなざし。陶芸家・余宮隆さんが歩んできた道のりとその器に込めてきた思いを、余宮さんご自身の言葉で全3回に渡って紐解いていきます。1回目は陶の道を志し、厳しい修業の中で何を学んだのか。その原点に迫ります。
デパートで見た「唐津焼」の
アンティークがきっかけで、陶芸の世界へ
ーーー天草で生まれ育った余宮さんが、陶芸の世界に興味を持ったきっかけは何だったんですか?
もともとはクルーザーの設計がしたくて、福岡で建築系の専門学校に通っていたんです。その在学中に学科のレポートで古い建築物を見に行く課題があり、当時福岡にあった「玉屋」というデパートに行ったところ「唐津焼」のアンティークが置いてあってそれを見た瞬間、「焼き物屋になろう!」とひらめいたのがきっかけでした。
そこからはとんとん拍子で、陶芸の世界に進みたいと母親に相談したら、たまたま師匠(中里隆氏)の同級生と知り合いで紹介してもらい、弟子入りが決まりました。
ただ、当時は正直言って作家ではなく、あくまでも手に職をつけたかったので、”ろくろ”が引けて職人として働ければ良いなと思っていたし、自分としては就職する感覚だったのでスーツを着て挨拶に行ったら師匠にエラく笑われて……(笑) それくらい何も分からずに飛び込んだ世界でした。しかも師匠の作品は「南蛮焼き締め」や「粉引き」を使った見たこともないような焼き物で、僕が知っている「唐津焼」とは全く違う。本当に驚きの連続でした(笑)
“ろくろ” に触れるのは深夜11時、
12時過ぎから。寝る間もなかった修業時代。
ーーー修業時代はどんな生活を送っていたんですか?
僕は徒弟制度最後の弟子だったので、住み込みで修行をしていました。日中は職人さんたちが”ろくろ”を使うので、弟子が使えるのは夕食が終わったあと。師匠が使った包丁を研いだり、台所をピカピカに磨いて、練習できるのは夜の11時、12時過ぎからでした。もちろん、朝も早いですよ。8時には皆んなが来るので、その前にお湯を沸かし工房を掃除して準備をする。それに加え、電気釜もガス釜も弟子が見張りをしなければいけないので、「忘れたらどうしよう」という恐怖から全く寝られなくて(笑)疲れ過ぎて正直あんまり練習していなかったんですが、1年で四寸皿ができていないと「この世界に向いてない」とクビになるので、休憩時間に職人さんに技術的なことを聞いたりして、必死にやっていましたね。
中里先生の「隆太釜」で3年間”ろくろ”の基本を学んだあとは、大きな窯元の「丸尾焼」で新たに8年間修行を積みました。実はちょうどその頃結婚するタイミングで、向こうのご両親から「就職しないと結婚させない!」と言われたため職人として雇ってもらえる「丸尾焼」に移ったんですが、結果的には1日中“ろくろ”を引かせてもらっていたので、そこで技術が飛躍的に上がったように思います。
陶芸家として独立し始めた30歳の頃、最初の師匠・中里隆氏と。
第2回へつづく
(プロフィール)
余宮隆(よみやたかし)1972年生まれ。熊本県天草市出身。唐津の「隆太釜」で中里隆氏に師事。その後、「丸尾焼」で8年の修行を経て独立。2002年には天草本町に「朝虹窯」として工房と窯を築き、現在は天草市内にギャラリーもオープン。
※天草の工房の見学はお断りさせていただいています。